浅野 長勲 あさの ながこと1
   

掃石共看山色坐
枕書同聽雨聲眠
石を掃い 共に山色を看て坐し
書を枕にし 同じく雨声を聴きて眠る
41.3p×134.2p

天保13年7月23日(1842年8月28日)生〜昭和12(1937)年2月1日歿
 日本の江戸時代末から昭和初期の大名、政治家、外交官、実業家、社会事業家。 安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代藩主。浅野宗家13代当主。勲等爵位は勲一等侯爵。
 城下大手町の広島藩士沢家に生まれる。幼名は喜代槌。伯父の浅野長訓の養子となり為五郎、のちに長興と名乗る。安政5年安芸広島新田藩主浅野家6代。明治2年本藩をつぎ安芸広島藩主浅野家12代となり、紀伊守に任じられ茂勲と改めた。号は坤山。
 藩地防御、長州征討のため国許を離れられない養父茂長(長訓)に代わり上京、幕末の政局に関与する。文久(1861〜64)以後の幕末変動期の政局において、藩政の指導的役割を果した。まず慶応2(1866)年、薩長同盟を中核とする討幕運動にいち早く加盟して尊王派の立場を示したが、土佐藩と協調して幕府も国政に参画させようとした。
 慶応3(1867)年4月の四侯会議に合わせ、池田茂政、蜂須賀茂韶と同時上京を図るも成らず、薩摩(鹿児島)藩と関係を密にすることとなる。10月に大政奉還を建白。12月には王政復古のクーデターに際しては倒幕派の公家、大名とともに参内し、小御所会議において薩摩藩と土佐(高知)藩の間を調停し、会議の取りまとめに成功した。
 徳川氏処罰問題では、岩倉具視らの強硬派と山内豊信ら寛典派との仲介役をつとめた。明治2(1869)年1月、広島藩主となり、版籍奉還後は知藩事。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩後は、明治13(1880)年に元老院議官となって以降、イタリア公使、華族局長官、貴族院議員、華族会館長、十五銀行頭取、日本鉄道理事を務め、侯爵を授けられた。
 著書に『浅野長勲自叙伝』がある。
 「坤山源長勲」の下に、白文の「源朝臣長勲印」、朱文の「我以天保壬寅生」の落款印が押されている。

推奨サイト
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